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第3話 明日の行き先

Author: 伊桜らな
last update publish date: 2026-10-28 20:11:34

目を覚ました瞬間、遅刻したと思った。

紬は上体を起こし、見知らぬ部屋に息を止めた。

白い寝具。厚いカーテン。枕元の小さな時計。

午前六時十二分。

階下からミキサーの音が聞こえない。焼き始めた生地の匂いもしない。

代わりに、かすかな空調の音がしていた。

昨夜のことを、少しずつ思い出す。

雨。破れた紙袋。温かいスープ。

久世怜司という人。

紬は布団の端を握った。

本当に、泊めてもらってしまった。

部屋へ案内してくれた女性従業員は、浴室の使い方を説明し、濡れた服を乾かすための道具まで用意してくれた。ベッドに入る前は落ち着かなかったのに、横になると、次に気づいたのが今だった。

枕元に置いた携帯電話を手に取る。

借りた充電器のおかげで、電源は戻っていた。

面接は十時半。

まだ間に合う。

紬はベッドを下り、浴室に掛けておいたブラウスを確かめた。袖口に少し湿り気が残っているが、着られないほどではない。

服を整え、洗面台の前で髪を結ぶ。

鏡に映る顔は、昨夜より血色がよかった。

眠っただけで、こんなに違う。

そのことが、少し怖かった。

もう一晩、と頼みたくなる前に出なければ。

便箋は、机の引き出しにあった。

『昨夜は大変お世話になりました。食事も、お部屋も、ありがとうございました』

そこまで書いて、手が止まる。

代金は必ず返します、と続けようとして、ペン先を浮かせた。

いくらなのかも知らない。いつ返せるのかも、今は約束できない。

紬は代わりに、自分の名前と携帯電話の番号を書いた。

便箋を折り、借りたタオルの隣に置く。

紙袋を持ち上げる前に、丸い缶の蓋を開けた。

昨夜、洗って水気を拭き取った型が並んでいる。鳥の型を指でつまみ、角度を変えて見る。錆びてはいなかった。

蓋を閉じ、荷物をまとめた。

忘れ物がないか、部屋を一周する。

最後に、乱れた布団をできる限り整えた。

扉が閉まる音は、思ったより静かだった。

フロントへ鍵を返すと、従業員が画面を確認した。

「朝食のご用意がございますが」

「いえ、もう出ますので」

「さようでございますか。少々お待ちいただけますか」

紬は紙袋の持ち手を握り直した。

何か、不備があったのだろうか。

部屋に残した手紙は、見つけてもらえるだろうか。

考えていると、背後から声がした。

「おはようございます」

振り返る。

怜司が、ロビーの奥から歩いてきた。

昨夜とは違う紺色のネクタイをしている。片手には薄い書類の束を持っていた。

「もう出られるんですか」

「はい。昨日は、本当にありがとうございました」

紬は頭を下げた。

「お手紙を、部屋に置いたんですけど……」

「ありがとうございます。あとで受け取ります」

怜司の視線が、紙袋へ落ちた。

「今日は、どちらへ?」

「面接です。十時半から」

「それはよかった」

言葉に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。

「まだ、決まったわけではないんですけど」

「場所は、遠いんですか」

「駅から三十分くらいです」

「では、朝食を取る時間はありそうですね」

紬は返事に詰まった。

断る言葉を探しているうちに、怜司が付け加える。

「私もこれからです。よければ、ご一緒に」

朝のラウンジには、昨夜と違う光が入っていた。

窓際の席に座ると、街路樹の葉に残る雨粒が見えた。

紬の前に、トーストと卵、スープが並ぶ。

怜司はコーヒーに手を伸ばしながら尋ねた。

「お菓子を作るお仕事ですか」

「はい。製造の補助ですけど」

「昨日の型を見て、そうなのかと思っていました」

「前の店では、焼き菓子を担当していました」

そこまで答えると、怜司は続きを待った。

紬はスプーンを持ち直した。

「店が、閉まってしまって。二階の部屋も借りていたので、一緒に出ることになったんです」

「そうでしたか」

「もっと早く、次を見つければよかったんですけど」

怜司はカップを置いた。

「今日のところは、住み込みですか」

「いえ。違います」

「面接が終わったあとは?」

紬は卵の載った皿を見つめた。

住み込みの求人には、断られ続けていた。経験が足りないところもあれば、すぐに入れる部屋がないところもあった。

今日の求人は、通勤だった。

採用されたとしても、初めての給料までは時間がある。

「……探します」

「泊まる場所を?」

「はい」

怜司は黙った。

紬は慌てて顔を上げる。

「でも、今日は晴れていますし。昨日みたいには、ならないと思います」

口にしてから、答えになっていないと気づいた。

晴れていても、夜は来る。

怜司は窓の外へ一度目を向け、それから紬に視線を戻した。

「朝倉さん」

「はい」

「面接が終わったら、一度ここへ戻りませんか」

紬の指が止まる。

「荷物を預けていただいて構いません。そのあと、今夜からどうするか、少しお話ししたい」

「でも、これ以上は」

「その場で何かを決める必要はありません」

穏やかな声だった。

「お話だけでも」

紬は足元の紙袋を見た。

これを抱えて、面接へ行くつもりだった。どこかのコインロッカーに預けることも考えたが、その数百円が惜しかった。

怜司は返事を待っている。

紬は、ゆっくりとうなずいた。

「……荷物、お願いしてもいいですか」

「ええ」

怜司はそれ以上、先の約束を求めなかった。

紬は冷めかけたスープを口に運んだ。

面接が終わったあとに向かう場所が、ひとつできた。

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